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語学留学について

HP社など、大手OEM先の開拓となり、ひいては「LEPICX」の画期的な量産化につながった。 販売価格も一台五O万円を切る。
考えてみれば、それまでのOEM販売を行なってきたことがOEMビジネスのノウハウとして蓄積され、このときの営業活動に役立ったといえるのだ。 ザーピームプリンタの総累積生産台数は一二OO万台に達し、パーセント以上を占めている。
レーザービームプリンタの発売以来、キヤノンはOEMを中心に積極的な販売活動を行ない、日本、アメリカ、ヨーロッパのそれぞれで成功した。 また、レーザーピ−ムプリンタの技術はワープロ、漢字端末、グラフィックターミナル、デジタル複写機、カラ−複写機、普通紙ファクシミリなどにも応用され、商品ジャンルは拡大の一途をたどっている。
なお、「LBPl10」は八六年(昭和六一年)二月に生産打ち切りとなったが、小型高解像力、低価格が評価され、発売以来の出荷台数は七OOO台を記録している。 億円を突破する。
九三年にはコ二OO億円に達している。 このようにLBP事業はもはやキヤノンにとって欠かせない重要な柱であり、いまなお可能性を秘めた「ドル箱技術」であることは間違いない。
キヤノンUSA 1955年、ニューヨーク支店として5人ほどで開設されたが、現在は従業員四回人以上、営業拠点B底、関連会社11社のグループを築くに至った。 1992年の売上高45億四日日万ドル。
支出に対して三倍の一二七億円という特許収入一九九二年(平成四年)、キヤノンはアメリカの特許商標庁が毎年発表している米国特許登録件数で五年ぶりにトップに返り咲いた。 キヤノンは独自技術を武器に成長してきた企業である。

それを如実に物語るのがこの特許登録件数だといえよう。 ちなみにキヤノンの九二年における特許出願公開件数は一万一OOO件を超える。
そのうちアメリカでの特許登録件数は約一割の一一OO件。 この数字は東芝、三菱電機、日立製作所、GE社(ゼネラル・エレクトリック社)といった並みいる大企業を抑えて堂々たるトップなのである。
現在、キヤノンの特許権収入は年間約一二七億円に達するが、これは特許権支出に対して約三倍の入超だ。 こんな日本企業は数少ない。
キヤノンがいかに独自技術を重視し、特許戦略に力を注いできたかがわかろうというものだ。 キヤノンの売上高に占める研究開発費の比率が二桁、一Oパーセントを超えたのは八六年(昭和六一年)だった。
それを境に特許登録件数も飛躍的に増大している。 これを見ても、研究開発費と特許登録件数との因果関係は明らかである。
キヤノンがアメリカでの特許登録件数ではじめてトップに躍り出たのは創業五O周年にあたる八七年(昭和六二年)だが、それ以前からキヤノンは経営戦略上、明確な意志をもって特許戦略を展開してきた。 キヤノンの特許戦略の歴史を振り返ってみよう。
キヤノンの特許出願の歴史は当然のことながらカメラの研究開発からはじまっているが、とくに昭和三0年代に入ってから活発になり、五五年(昭和三O年)は年間二一件だった出願件数が、五六年(昭和三一年)一五件、五七年(昭和三二年)三五件と増加し、五八年(昭和三三年)には五O件を超えるまでになった。 出願の内容も開発活動に応じてどんどん多様化し、たとえば「シンクロリーダー」の開発に力を入れた時期には、磁気、録音機関係の出願がカメラよりも多いという現象が起こっている。
そのほか、磁気ヘッド、テレビカメラ、印鑑照合機など、多種多様な特許・実用新案が出願登録された。 一方、カメラについても積極的な開発活動が行なわれ、この時期の注目すべき発明としては「フラッシュ同調装置」や「シネカメラにおける巻き返し装置」などがある。

これらは後に発明協会から発明表彰を受けた。 また、六O年(昭和三五年)頃からスタートしたX線間接撮影用ミラーカメラの開発二O件もの特許・実用新案が出願されている。
そうしたなかで、五八年(昭和三三年)、技術部内に特許係が新設された。 研究開発を通じて得た成果を確実に権利化することを目的にしたもので、これが事実上、キヤノンの特許戦略のはじまりといってよい。
一九五九年(昭和三四年)四月、工業所有権を手厚く保護するために特許法が改正された。 二一年(大正一O年)以来の大改革だった。
このとき、職務を通じた発明についても新たな規定が定められたが、この特許法の改正を受けるかたちで、キヤノンでも六O年(昭和三五年)四月、「発明考案に関する特許権、実用新案権、意匠権の取扱規程」を定め、これに基づく「事務取扱要領」と「特許審査委員会規程」が制定された。 わかりやすく言えば、キヤノンの社員が開発の仕事を通じてなんらかの発明を行なった場合、会社はその成果に対して一定の対価を支払うというもので、会社として社員の発明を奨励する方針を明確に打ち出したのである。
このような発明に関する社内ル−ルの整備や社員発明の奨励策によって、以後、キヤノンの研究開発活動はより活発化することになる。 もっとも、初期の段階での、キヤノンの特許戦略は、外に向かって積極的に展開されたものではなかった。
キヤノンの特許戦略が、社外のコンペティターを意識し、本格的に展開されるようになるのは昭和三0年代の後半から四0年代にかけてで、電子写真方式のNPシステムによる複写機の開発がはじまったあたりからである。 六二年(昭和三七年)に特許実用新案の出願件数は合わせて一OO件を超えるが、事業の多角化が進むにつれ、キヤノンの工業所有権出願の技術分布も変化していった。
昭和三0年代の後半まではカメラ・光学機器分野の出願が大多数を占めていたが、昭和四0年代に入ってからは電子写真分野の出願が四割を超えるようになる。 こうした背景から、六九年(昭和四四年)九月、カメラ・光学技術などを扱う特許第一課に加えて、事務機などを扱う特許第二課が新設された。
こうしたキヤノンの積極的な工業所有権活動への取り組みが、後に国内外企業に多数のライセンスを提供する基礎となる。 七0年代に入って事業の多角化ならびに業容の拡大が進み、研究開発の成果は七0年代半ば以降に映像情報産業分野の多様な技術、製品へと開花していくことになるが、その成果を保護し、活用するための武器となるべき工業所有権活動も多岐にわたり、規模も拡大していったのである。

最初は技術部内に新設された特許部円だったが、その後、開発業務部を経て七二年(昭和四七年)に独立、特許部に昇格する。 技術に関する契約業務も特許部で扱うようになり、工業所有権の活用までを含めた一貫管理態勢が築かれ、-キヤノンの特許部門の活動領域は大幅に広がっていくのである。
このような事情により、工業所有権に関する処理件数が増えたため、その管理に必然的にコンピュータの導入が求められた。 そこで二年間にわたる電算化の検討、システムの設計およびデ−タの蓄積期間を経て、七四年(昭和四九年)からはコンピュータによる出願業務の処理および管理がはじまっている。
ところで、キヤノンの複写機を支えるNP技術は、先行するゼロックス社やRCA方式とはまったく異なる第三の方式であり、その権利を確保するために七一年(昭和四六年)から七五年(昭和五O年)にかけての五年間だけでも約一五OO件にのぼる特許・実用新案が出願された。


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